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闘病記あとがき~白血病完治~

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2003年11月に、「急性前骨髄球性白血病(APL M3)」と診断され、入院したあの日から、12年が経ちました。 今もこうして元気に生きています。 入院していた当時は、自分の5年後10年後の姿なんて想像できなくて、この世に生きていられるのかさえわからなくて不安だったあの頃のことを、今でも時々思い出します。 発症当時は「白血病」というと、不治の病のイメージが強くて、実際に周りでも、亡くなられた方を知っていたので、本当に自分が完治できるのか不安でした。 ネットでも、今ほどブログなどで書かれている人も少なくて、完治した人のブログなどほとんどなくて、一体これから私の人生はどうなるのだろうと、未来がなかなか見えずにいました。 だけどネットで闘病記など発信されている方が、少ないながらもいたおかげで、すごく心強く、自分一人じゃないんだと、励まされました。 白血病の闘病は、患者さんの割合も少なくて、治療も無菌室やクリーンルームなど、狭い世界の中で、孤独になってしまうことが多いので、ネットという広い世界と繋がるツールがある時代で、本当に良かったと思いました。 まさか自分もブログで闘病記を書くことになるなんて、思いもしませんでした。 でも、自分を癒していく過程で、天使たちの導きから、自分の中の闇を吐き出して、昇華していく流れになり、闘病時から10年以上の時を経て、当時のことを書くことになりました。 当時書き留めていた手帳やノート、血液データ表、取り寄せた入院カルテのコピーなどを元に、記憶をたどって書いていきました。 もう10年以上も前のことなので、鮮明に覚えている事、だいぶ忘れてしまっている事もありました。 また治療方法や医療の世界も、私の頃とは、随分変わってきているだろうと躊躇する気持ちがありました。 まるでパンドラの箱を開けるような恐怖心もあり、最初の頃は、本当に最後まで書けるのか、全く自信がありませんでした。 ただ時々、TVなどで、白血病やがんを患って、真っ暗になってしまった人。 戸惑い、不安、恐怖を抱えている人の姿を見ると、当時の自分を見ているようで、もし何か書くことで、誰かの希望になれたらいいなと。 そして何より自分自身を救うために、過去から解放されたくて書こうと思いました。 書

エピローグ~桜の時~

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大好きな桜の季節がきた。 白血病退院から4年経った2008年の春。 定期検査の日がきた。 病院へ向かう道中、感慨深い気持ちでいた。 まだ4年で完治とは呼べないのかもしれないけれど、自分の中ではもう絶対大丈夫と信じていた。 出会いと別れ。 卒業、入学、新生活。 植物たちが色とりどりに芽吹いてくる、この季節が好きだ。 毎年桜の季節になると思い出す。 2004年白血病退院した日のこと。 綺麗な桜吹雪を見たこと。 緊急入院、転院、告知、怒涛の闘病生活。 そしてDr.との日々を思い返していた******** 「ray*さんが入院した日のことは、よく覚えている」 「入院した頃、精神的にすごく不安定で一人ぼっちに見えた」   「たいがいの患者さんには献身的に支えてくれる人がいて、医者の役割は限られているけれど、ほとんど支えてくれる人がいないように見えた」 「だから自分が何とかしてあげなければと思った」 「必要としてくれる人がいるなら、頑張ろうと乗り越えられた」 「ray*さんと、とりとめのない話ができる時間はすごく癒された」 「あの時期、ray*さんが生きるための意味であり救いだった」 「論文のリプリントを渡した時、この人にもらってもらえるなら、研究への想いも諦められると思った」 入院中の私は、絶望と恐怖のどん底にいた。 孤独で絶対的な希望もなくて、でも死ぬのも怖くて、闘う勇気もなくて、どこにも逃げ場がなくて、どうしていいかわからない状態だった。 でもDr.や看護師さんがすごく優しくしてくれて、一生懸命励ましてくれて、自分のためにすごく熱心にやってくれている姿を見て感動した。 自分のためにこんなに頑張ってやってくれている人がいるのなら、私はこの人たちの力を借りて、頑張って乗り越えられるかも。 この人たちの力を無駄にしたくない。 頑張っていこうと思えた。 そしてDr.がかけてくれた言葉 「代わってあげたいけど、代わってあげられない」 この言葉を聞いた時、氷のように冷たくなっていた私のハートが、じんわり温かくなっていった。 こんなに優しい言葉をかけてくれる先生がいるなら頑張れる。 この人と出会えて良かった。 頑張って退院して、元気にな

一筋の光~天使との出会い~

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どうやったら病気や死の恐怖心が癒されて、心が穏やかに生きていけるのだろう? 白血病退院から一年が経過した2005年頃、維持療法を続けていく中で、病気への不安は心の大きな部分をしめていた。 生存率や予後の数字の恐怖から自分を救うために、どうしたらいいのか? 白血病の闘病生活で精神にダメージを受けて、精神科に入院された方がいると聞いた。 お坊さんでさえ、今までの修行は何だったんだろうと思うほど、辛かったという話を聞いて、それほど白血病の闘病は過酷なんだと改めて思った。 家族でもなかなか辛さを理解されず、孤独になってしまう。 一人で思い悩んで辛くなった時は、白血病のサイトの掲示板などで、同じM3の患者さん達と繋がって情報交換をしたり、白血病の電話相談窓口で悩みを相談した。 同じ境遇の人や先輩患者さんとの繋がりで、自分一人じゃないんだと、ネットがある時代で本当に良かったと思った。 そしてML(メーリングリスト)で白血病の先輩患者さんから、「病気のことを考えて毎日を過ごすよりも、楽しいことを考えて過ごすといいよ」と鍵となる言葉をもらった。 もう病気のことから離れて、楽しいこと、好きなことをして生きていこうと思った。 (参考記事: 生存率・予後~数字の恐怖~ ) もう二度と病気にならないと信じて、入院中に使用していた物を整理した。 ほとんど使用しなかった、かつらは、誰かの役に立ってくれるといいなと思い、夏目雅子さんの「ひまわり基金」に寄付した。 なぜ自分は白血病を患ったのか? どうやったらこの苦しさが癒されるのか? 科学の世界には私が探していた答えが見つからなくて、目には見えない世界、スピリチュアルな世界にその答えがあるような気がして、興味を持つようになっていった。 白血病入院時から、普段は目に見えないものを見たり、夜中にブルーの光がびゅんびゅんと飛んでいるのを見たり、寝ていると誰もいないはずなのに、頭上から男性と女性の話し合っている声が聞こえてきたりした。 目覚めた瞬間、ご先祖様のような人が、枕元で見守ってくれていて目が合ってびっくりしたり、誰かが髪に触れる感覚など、不思議な体験は退院後も続いていった。 思えば小さい頃から、霊など不思議な存在を見たことがあった。 その当時は驚きと恐

生存率・予後~数字の恐怖~

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白血病退院から一年が経過した頃、同時期に入院していた人たちの、再入院や天国に旅立たれた便りが届いてきた。 他人事ではなくて、大きなショックを受けた。 自分は大丈夫なのか? これからも元気で生きていけるのだろうか? そんな不安がよぎる。 不安を解消したくて情報を得ようと、ネット検索をすると、「生存率」というシビアで残酷な数字が突き刺さってくる。 生存率、再発率…… 頭から離れず眠れない。 恐怖に襲われた。 急性前骨髄球性白血病(APL・M3)のことを調べていると、白血病の発症初期の白血球の数値が、再発率や予後の重要なファクターになると知った。 自分の発症時のデータを見てふと疑問がわいた。 一番最初に受診した近医のクリニックでは、白血球の値は900と非常に低い数値だったのに、総合病院から転院して今の病院に来た時には、19100と非常に高い数値になっていた。 この白血球の不自然な上昇はなんだろう? 自分の場合は一番最初の低い数値か後の高い数値か、一体どの数値が指標となるのだろう? 疑問に思って、外来受診の時に主治医のDr.に聞いて、サマリーのコピーをもらった。 最初に緊急入院した総合病院で、900 → 3800 → 16500 とわずか3日間で急上昇していた。 Dr.は慎重に説明してくれた。 「白血球の数値が急上昇しているのは、転院前の病院で白血球を上げる注射G-CSF(ノイトロジン)を複数回打たれて、人工的に白血球が増やされていたから」 「そのせいで白血病細胞も増えてしまい、DIC(播種性血管内凝固症候群)の症状が悪化して、危険な状態になってしまった」 「もうちょっと早くうちの病院に来ていれば、もっといい状態のまま治療できて、あんなに強い寛解導入療法にはならず、もう少し楽な治療になっていた」 「それがあったから絶対治してあげようと必死だった」 ……ショックでハンマーで殴られたかのように頭がクラクラした 私が、「芽球のある骨髄性白血病患者にはG-SCFは禁忌と書いてあった」「これって医療過誤なんじゃないですか?」と聞くと、 Dr.は、「個人的にはミスに当たると思う…」「でもいろんな場合があるからそうと言えるかはわからない」と言葉を選びながら言った。 転院前

維持療法(APL M3)~ベサノイドATRA~

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携帯電話が鳴った。 Dr.からだった。 「大丈夫?大変だったね」 「落ち込んでいるんじゃないかと思って…」 Dr.の優しい声を聞いて安心した。 泣きたくなるほど嬉しかった。 「来週外来に来れる?」 「維持療法した方がいいから」 「じゃあ、待ってます」 すごいタイミングで、Dr.から電話がきてびっくりした。 天からの救いのように思えた。 生きる希望がなかったけど、いつも私のことを心配して支えてくれるDr.がいる。 維持療法は辛いけど、Dr.がいるから頑張ろうと思った。 今の自分には、Dr.の存在が生きる支えで希望だった。 卵巣嚢腫の手術後、初めて外来に行った。 Dr.はいつもと変わらず優しく笑顔で迎えてくれた。 Dr.の顔を見て安心した。 維持療法 ・MTX(メトトレキサート)注射、週1 ・6-MP(ロイケリン)飲み薬 ・ATRA(ベサノイド)飲み薬  3か月に1回2週間服用を2年間 維持療法は当初3種類だったけど、MTX、6-MPの抗がん剤の副作用(吐き気 倦怠感)がきつく、飲めなくなって、半年間でMTXの注射と6-MPの飲み薬は終わった。 マルクでも異常はなく、それ以降はベサノイドのみの維持療法となり、ベサノイドは3か月に1回2週間を、2年間続けることになった。 退院後のマルクは腸骨からにしてもらった。 ベサノイドは、2週間続けて飲めばしばらく休めるので、副作用が出ながらもなんとか飲めた。 ベサノイドはM3の特効薬で、まだ情報も少なくて副作用などすごく不安もあった。 頭痛、吐き気、めまい、口腔内などの乾燥。 目の調子が悪くなったり、思いがけない副作用などが出たりして、Dr.とも電話やメールなどよく連絡をしていた。 通院している間に少しずつ体力も回復してきた。 けど疲れやすく無理がきかなくて、風邪など引くとなかなか治りづらかった。 しんどくなる度に、再発の恐怖に襲われて、精神的にはまだ不安定だった。 友人に会ったり、自然の中に出掛けることで、気分転換ができて、すごく癒された。 ある日、病院からの帰りにタクシーに乗ると、運転手さんになぜか芸能人に間違われた。 ウィッグ、帽子、マスクをしていると、全然病人とはわからないん

卵巣嚢腫茎捻転~緊急手術~

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下腹部に痛みと違和感を感じた―― 白血病治療から退院して、2ヶ月後の2004年5月。 下腹部の痛みが気になって、病院で検査をしたら、左の卵巣嚢腫があることがわかった。 以前から不正出血があって、生理痛もひどかった。 白血病入院中に看護師さんから、 「一度婦人科で診てもらった方がいいよ」と言われていた。 退院したばかりで、ホッとしていたところに まさか卵巣の病気が発覚するなんて、思いもよらず、大きなショックを受けた。 婦人科のドクターに、捻じれたら大変だからと、手術を勧められたけれど、まだ白血病の入院治療が終わったばかりの病み上がりで、入院のトラウマもあるために、できれば手術はしたくないと躊躇していた。 ハンマーで殴られたような、ショックでフラフラになり、なんでこんなに大きな試練が、次々襲ってくるのか、自分の運命を恨みたくなった。 生きていても、病気にばかりなるなら、いっそこのまま死んだ方がましかもと、暗い気持ちになった。 検査結果を聞いた翌日、その時は突然やってきた。 下腹部の強い痛み、吐き気がして、もうこれはダメだと、検査をしてもらった近くの総合病院へ行くと、「茎捻転だから、すぐに手術をしないといけない」と言われ、緊急手術となった。 白血病の加療中患者ということで、婦人科のドクターが血液内科の主治医のDr.に連絡をとって、手術をしても大丈夫か確認をとってくれた。 本当は向こうの病院の方がいいけど、緊急性と、ちょうど婦人科のドクターが揃っているからと、そのまま即手術をしてもらうことになった。 家族に連絡して、母親が来てくれた。 腫瘍の大きさが、7.5cmにもなっていて、開腹手術のため半身麻酔をした。 生まれて初めての手術台。 半身麻酔で意識はあるので、すごく怖かった。 無事に手術は終わり、腫瘍は良性で、嚢腫の部分だけとって、残してくれた。 ずっと下腹部に痛み、違和感があって気持ち悪かったので、手術は怖かったけど、無事に終わってホッとした。 縫った傷口が痛い… 体にメスを入れるって、こんなに辛くて痛いんだとわかった。 白血病の抗がん剤治療の時は、手術で腫瘍をとれる病気は、すぐに退院できるから、そっちの方が血液疾患の治療よりいいかなと思っていた。 だけど、部分麻酔を

白血病退院後の生活~QOL~

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退院となった、2004年3月下旬から、徐々に普通の生活を取り戻していった。 4ヶ月ぶりの外界の生活はとても新鮮で、コンビニのお会計で店員さんと接するのも、なんだかドキドキして浦島状態だった。 「ウィッグがばれてないかな?」 「病人とわからないかな?」 と周りの視線が気になった。 退院後のマルクで悪い細胞は消えていて安心した。 マルクの検査結果を聞くときは毎回ドキドキする。 血液データも回復した。 普通の人と同じように、生ものも食べられるようになった。 感染に注意して脅えて暮らさなくてもいいようになり、ひとつひとつ普通の生活ができるようになって嬉しかった。 数か月ぶりに食べたお寿司の味は、格別に美味しかった。 入院中に痩せて、体力も落ちて、日常生活をするだけで疲労感があった。 体力を戻すために、少しずつ散歩やヨガをするようになった。 心もスッキリして、とてもいい気分転換になった。 看護師さんには、「こんな辛い治療を乗り越えたんだから、もう怖いものはないよ」と言われたけれど、実際は、普通に悩んだり落ち込んだり変わらない。 逆に「死」や「病気」に対して、すごく恐怖心が生まれた。 体調に敏感になって、少しでも異常があると不安になる。 維持療法の副作用が辛くて、心折れそうになったり、芸能人の白血病発症や再発、亡くなられたニュースに動揺した。 4ヶ月の闘病生活で精根尽き果ててしまい、もうこれ以上は頑張れないと思った。 がんを患った人たちは、みんなこんな恐怖、不安を抱えながら生きているのだろうか? 心から安心感を得られるようになる日がくるのだろうか? 薬を飲まなくても、眠れるようになる日がくるのだろうか? 時々、現実逃避で空想の世界に入っていたり、また別の病気になってしまうんじゃないかと心配になった。 入院生活は人生の回り道で、また元の道に戻れるんだと思っていた。 だけど、実際は、それまでの人生のレールの列車は降りて、別の線路の列車に強制的に乗り換えて、新しい人生がリスタートしたように感じた。 以前の自分とは価値観も体も心も、全く別の世界を生きている。 普通の生活ができることに喜びを感じる反面、落ち込んだり、悩んだりすることも多かった。 歯科や眼

白血病退院~桜吹雪~ 

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2004年3月下旬。 桜が咲き始め、春の訪れを感じる頃、退院が決まった。 まだデータが低くて、退院できないと思っていたけど、 Dr.から 「明日退院しますか?」 「これからデータは上がっていくから退院してもいいよ」 と言われ、急きょ退院することになった。 もう精神が限界になっていた。 クリーンルームから、なかなか出られなくて、「もう限界」とDr.に話したら、 「明日出れるようにします」 「本当はまだクリーンレベルだけど」と 私の精神面を考慮して、クリーンを解除してくれた。 大部屋でも退屈で、消灯時間も早くて眠れなかった。 夜はよくデイルームに行って、他の患者さんたちとTVを見たりしていた。 将棋があったけれど、もっとゲームや本など、リフレッシュできる空間があればいいのにと思った。 院長回診の時に、看護師さんに促されて、携帯やネットの電波が悪くて不便なことを伝えたり、Dr.や看護師さんにも言っていたけど、病院の環境自体は退院まで改善されなかった。 とても窮屈な長い入院生活に、もういっぱいいっぱいになってしまっていた。 ようやく夢にまでみた退院だ! 嬉しい! 本当によく頑張った! 一時期は「もう治療できない」と絶望したけど、Dr.、看護師さん、患者さん、家族、友人 いろんな人の支えのおかげで、こんな私でもなんとか乗り越えることができた。 いろいろあるけど、家族がいてくれて本当に良かった。 母親がお見舞いに来てくれて、退院が決まったことを話すと驚いていた。 2003年11月、緊急入院した前の病院では、「もう危ない」と言われていたようで、家族は覚悟をしていたと聞いた。 でもこの病院に転院した時、真っ先に「治りますか?」と聞いたら、Dr.は「治りますよ」と言ってくれたので、家族は安心したと。 私も転院前の先生に 「あと3日、もつかどうか」と 余命宣告された時は、真っ暗になった。 だけど、この病院にきて、Dr.の「治る可能性が高い」という言葉に希望が持てた。 もし転院が、あと1日でも遅ければ、どうなっていたのだろう? 奇跡的に転院できて本当に良かった。 神様やご先祖様のご加護を感じた。 Dr.や看護師さんも、父親や母親のように優しく見守

地固め療法~3クール~

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無事に寛解となり、2003年12月末から、地固め療法が始まった。 抗がん剤投与→骨髄抑制クリーンルーム入室→血球が立ち上がるとクリーン解除大部屋へ→外泊してリフレッシュ この1クールが大体1ヶ月位で、3クール3ヶ月の地固め療法を行った。 始まる前は、寛解導入の時の副作用の辛さやトラウマで、ものすごく恐怖だったけど、Dr.が吐き気止めを強めに入れてくれて、大丈夫だった。 クリーンの時は、何度かパニック症状が出たりして、Dr.もできるだけ精神の負担がないように考慮してくれた。 クリーンから出たり、抗がん剤投与後の、まだデータが下がりきっていない間に、外泊をさせてくれた。 Dr.や看護師さんも、クリーンの時はよく部屋に来てくれて、いろいろ楽しく話をしたり、サポートしてくれた。 キロサイドとノバントロン、ダウノマイシン、イダマイシン。 青色、赤色、橙色の抗がん剤を投与した。 体の倦怠感や眠れなくて、しんどかった。 白血球が下がっている間は、口内炎、歯痛、歯肉炎などいろいろ炎症が起こり、38~39度台の熱が出たりと辛かった。 髪の毛、まつ毛、眉毛、体毛の全てが抜けた。 ピアスの穴が、塞がってしまうのが嫌で躊躇していたら、Dr.に「大丈夫でしょう」と言われて、つけたままで消毒をしたら大丈夫だった。 1クール終えると、苦手な骨髄穿刺(マルク)をした。 地固め3クール目が始まる前には、髄注(ルンバール)もした。 背中に針を刺し、脳脊髄液に抗がん剤を入れる。 他の白血病患者さんからいろいろ聞いていて、不安だったけど、無事に終わった。 おしりや左足が、しばらくしびれてすごく怖かった。 病院にいると生死を強く感じた。 誰かが亡くなった時、廊下から大声で、ご家族の泣き声が聞こえてくる。 そんな日は、病棟がしんと静まりかえる。 普段は明るく過ごしている患者さんも、みんな心の中は、不安でいっぱいだ。 明日は我が身かもしれない。 そんな死の恐怖が常にあった。 だからいつも、外の世界に希望を見出して外泊を楽しみに頑張った。 外泊は合間合間にできて、リフレッシュできた。 お正月は、近所の神社に初詣に行けた。 病気が治るようにお願いしてお守りを買った。 両親もお守り

クリーンルームトラウマ~治療と死の恐怖~

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「もう私たちではケアしきれないから、精神科のある病院に転院するか、臨床心理士に来てもらうかした方がいいと思う」 リーダーの看護師さんからそう言われた。 外泊から戻ってきてトラウマから、PTSD、パニック発作のような症状が出てきた。 「もう治療は無理だし止めたい」と言った私に、 看護師さんは、 「ray*さんのような感受性の強い患者さんは、今までに看たことがことがなくてわからないから、別の専門家のいる病院に、転院した方がいいと思う」と提案してきた。 すごくショックだった。 今の不安定な状態が和らぐならそうしたいけど、多分そんなことをしても、この強い恐怖は和らがないとわかっていた。 看護師さんは、私のことをそういう風に見ていたんだと、見離されたように感じた。 それに、治療途中で病院が変わること、Dr.や看護師さんが変わることは、不安に思った。 いつも明るく励ましてくれていたのに、やっぱり私の気持ち、白血病患者の精神的つらさは、理解されていなかったんだなと思った。 それともこんなに恐怖に襲われるのは私だけなの? みんな白血病の死の恐怖や、クリーンルーム(無菌室)の閉鎖空間、強い抗がん剤治療、副作用など平気なの? 治療も怖いし死ぬのも怖い。 どこにも逃げ場がなくて、どうしていいかわからない。 このままでは精神が壊れてしまうよ。 私には白血病治療は、精神的に無理なんだと絶望した。 昔ならM3(APL)は、とても死の確率が高い病気だった。 今は医療が進んで特効薬が開発されたけれど、あんなクリーンルームの環境で、あんなにきつい抗がん剤の投与をして、生き延びても心も体もダメージが強すぎる。 家に帰りたい。 もう治療できずに死んでしまうのだと思った。 絶望のどん底にまで落っこちてしまった―― 一人絶望的な気持ちでいると、私と看護師さんの話を聞いていた、同部屋の上品な血液疾患のお婆さんから声をかけられた。 「治療を止めるなんて言わないで」 「私はもう歳だから移植や強い治療はできないけど、あなたはまだ若いから、治療ができる」 「治るんだから」 お婆さんの強くて優しい言葉に涙が出た。 全く他人なのに、いつも私のことをよく見ていてくれていた。

外泊~1ヶ月ぶりの外出~

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季節はいつしかXmasシーズンになっていた。 緊急入院になった1ヶ月前から、ずっと病院内で過ごしていたので、いつも窓の外の景色を眺めては、外はどのくらい寒いんだろうと想像していた。 白血球が回復してくると同時に、体の炎症も治っていき、人間の細胞、白血球のパワーを実感した。  目の上にできた吹き出物の炎症で熱が出て、皮膚科の先生に治らなければ切開すると言われていたけど、白血球が上がると炎症が治まった。 入院生活も1ヶ月近くになり、退屈でストレスもMAXになってきた。 血液データはまだ回復していないけど、病院にいてもすることがなくて、気分転換した方が心身共に元気になるかもと、外泊の許可がでた。 感染対策をしっかりして、何か異変があれば、すぐに病院に戻ってくる約束をして。 WBC   1000 Hb        7.8 PLT     13.4 (Day 24) やっと念願の外泊だ! 家に帰れる! 嬉しい! 心が弾んだ。 病院の玄関の自動ドアが開いた瞬間、外からの冷たい風が頬に触れた。 空気の匂い、頬に当たる風の感触。 目の前に広がる、外の自由な世界。 1ヶ月ぶりに外の世界に出て、こんなに素敵な世界に生きていたんだと、すごく感動した。 ずっと閉鎖された、クリーンルームの中にいたから、外の世界がとても新鮮に感じた。 空が綺麗、緑が美しい、風が心地よい。 今までこんなに五感を豊かにする、素敵な世界に住んでいたのに、当たり前すぎて、何の感謝も感動もしなかったけれど、自然界の美しさや癒しの力、人間界のエネルギッシュな力を実感した。 街ゆく人たちの姿も新鮮に映った。 Xmasのイルミネーションもあって、キラキラした世界に見えた。 母親とデパートに、予備のウィッグを見に行って、可愛いウィッグをgetした。 人混みの中を歩くだけでドキドキした。 マスクをして、ウィッグにニット帽姿の私。 きっと誰も私のことを、白血病治療中の患者とはわからないだろう。 普通に健康な人の姿に映っているんだろうなと、街を歩けるだけでワクワク嬉しかった。 久しぶりの家に帰った。 懐かしくてドキドキした。 犬にも逢えて嬉しかった。 家に帰れるなんて感動。

病棟~白血病患者同士の交流~

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「ねえちゃん、夏目雅子みたいやな」 病棟の食堂で、知らない患者のおじさんに声をかけられた。 なんかイラっとして 「私、死にませんよ!」と言い返した。 初めての入院生活。 クリーンルームから出られたけれど、他の患者さんとうまく溶け込めなかった。 「死」に対する言葉にすごく敏感になっていて、「死」を連想することを言われるだけで 過剰に反応してしまう。 健康な時なら、なんとも思わない言葉にも、すごく敏感になっていた。 家族、看護師さん、患者さんなど、ちょっとした言動で、腹が立ったり傷ついた。 すごく揺れ動く感情に、自分でもどうしていいかわからなかった。 寝不足、貧血、体力が落ちて、輸血をすると少し回復するけど、フラフラでしんどい。 抗がん剤の副作用の脱毛で、髪の毛が抜ける量も増えてきて、シャンプーしたら半分くらい抜けてしまった。 髪の毛が無くなるよー! 抜けた大量の髪の毛を見て、ショックで泣いた。 自分は白血病なんだと思った。 ウィッグと帽子を被るようになった。 大量に抜けてしまうのが怖くて、頭がかゆくなってきても、シャンプーはできるだけ我慢していた。 毎日どんどん抜けていくだけで、恐怖だった。 WBC  1200 Hb      6.2 PLT     6.6 CRP     0.4 (Day 20) 食堂で一人、食事をしていると、一人の同年代の男性に出会った。 彼は「悪性リンパ腫」 私は「急性前骨髄球性白血病 M3」と話した。 彼は 「じゃあ、アンディ・フグと一緒だね」 「今、入院している男性の中に、AML(急性骨髄性白血病)の他の型の人たちがいるよ」と言った。 アンディ・フグと同じ―― その言葉が胸に突き刺さった。 自分も死ぬのかと怖くなった。 M3は治る可能性が高いと聞いていたから、少し安心しているところがあった。 けど、白血病で亡くなられたアンディ・フグさんと、同じAMLの型だと知ってショックを受けた。 部屋に戻って、Dr.の回診の時に聞いてみた。 「先生、私アンディ・フグと同じ型だって、他の患者さんに言われたけど、本当ですか?」 「誰がそんなことを……」と Dr.はしばらく躊躇してから説明してくれた。

クリーンルーム解除~大部屋生活~

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やっぱりここが現実なんだ…… 朝、目覚めるといつもそう思っていた。 近医を受診してから怒涛の日々。 クリーンルームにいることが、どこか夢の中の出来事のようで、目が覚めたら、自分の家に戻っているんじゃないかと、そんなことばかり考えていた。 過酷な現実が受け入れられなくて、ここにずっと入っていたら、精神的におかしくなりそう。 もうずっと出られなくなるんじゃないかと、不安と恐怖に襲われる。 もうストレスが限界に達していた。 クリーンルームも2週間以上経過し、体も回復してくると、窓からは空も地上も見えない 殺風景な景色で、閉鎖された空間にいることが、精神的に苦痛になってきた。 ストレスから胃痛がひどく、食べられない。 胃痛、下痢、不正出血、目の上の吹き出物の炎症。 WBC  1800 好中球 648 Hb      7.3 PLT     5.5 CRP    1.6 (Day 15) 2回目の骨髄穿刺(マルク)をした。 前回の時のことを思い出し、すごく緊張していた。 「痛いかな…ナーバスになってる」と話すと、 同い年の優しい看護師さんが、処置の間、手を握ってくれて、声をかけて励ましてくれた。 クリーンルーム、17日目の夜。 ようやくクリーン解除となり、クリーンから出ていいと言われ、シャワー室に行っていいと許可が出た。 わーい嬉しい! シャワーできる! 自由に動ける! 院内のコンビニに行ける! クリーンからようやく出られて、初めて自分が入っていた病棟は、こんな世界だったんだとわかった。 改めてクリーンのすごく狭い世界に、閉じ込められていたんだと思った。 救急車のストレッチャーで運ばれ転院し、クリーンルームに直行したあの日。 何がなんだか、よくわからない状態だったので、家族や看護師さんに、病棟の様子を聞いていた。 ようやく念願のクリーン解除になり、看護師さんにフロアを案内してもらった。 シャワー室、食堂、デイルーム、ナースステーション。 こんな風になっていたんだと、違う世界に来たような、不思議な感覚だった。 フロアをほんの数メートル歩いただけで、すごくしんどくて息切れがした。 ずっとベッドの上でいると、こんなに体力、

不思議な体験・孤独との闘い~クリーンルーム~

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体が重い、熱い、苦しい。 地獄のような場所にいる夢だった。 朝、目覚めた時、今いるクリーンルームの環境が、とてもいい場所だと思えるほど、重苦しい夢を見た。 クリーンルームにいる間、不思議な夢を見たり、体験をした。 ドクターや看護師さんのオーラのような、色のついたエネルギーが見えたり、人のエネルギーが残り香のように、部屋に残っているのを感じた。 物のエネルギーも感じて、物質が呼吸をしている生き物のように感じた。 窓も開けられない、閉鎖された空間にいると、感覚機能が鋭敏になった。 今まで見えたり感じたりしなかった、エネルギーを敏感に感じるようになった。 クリーンルームの空間は、あの世とこの世の境界線が薄い感じで、窓のカーテンの向こう側には、あの世の世界があるような、すごく近い感覚がいつもあった。 自分の意識が死の方へ向いて、もうこんなに治療が辛いなら、死んだ方が楽になれるとか ネガティブな感情でいっぱいでいると、死や地獄の夢を見たり、金縛りにあったり怖い体験をした。 反対に、神様やご先祖様、「生きる」ということに、強く意識が向いている時は、そばに誰かが見守ってくれているのを感じていた。 ノートや携帯に自分の気持ちや、願い事を書いたりしている時、常に誰かが側にいて、それを読んでいるような気配を感じて、不思議とそのノートに書いた願いが叶っていた。 だからもう怖い体験はしたくないと、いつも自分の意識に気を付けて、自分が元気になっている姿を強く思い描いていた。 ちょうど、クリーンに入って2週間近くになる頃、タレントの吉井怜さんの闘病記のドラマが放送された。 2000年に急性骨髄性白血病を発症し、骨髄移植をされて、元気になって仕事に復帰されていた。 ドラマは自分の状況と重なりすぎて、見ていてすごくblueになってしまったけど、ロングヘアーになって、骨髄移植されたとは思えないくらい、元気で綺麗な吉井怜さんの姿を見て、とても勇気づけられた。 今の自分の体は、沢山の内出血のアザや針のあと、鎖骨にはIVHカテーテル、脱毛。 体も心もボロボロで、とても元の姿に戻れるのが想像できなかったけど、吉井怜さんが元気にTVに出てる姿を見て、「自分も元に戻れる!」と希望が持てた。 母

抗がん剤副作用・脱毛~クリーンルーム生活~

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1本、2本、3本… 朝起きると枕についた、抜けた髪の毛を数える。 抗がん剤の副作用で一番恐ろしかったこと。 髪の毛が全て抜け落ちるということ。 抗がん剤治療が始まって、1週間~10日頃から、パラパラと髪の毛が抜けるようになってきた。 洗面台でシャンプーしたら、200本くらい抜けてしまった。 とうとうこの時がきてしまったんだと。 やっぱり自分は、白血病患者なんだと実感して、ショックだった。 最初の頃は、抜けてしまった髪の毛が惜しくて、よく数えていた。 毎朝、コロコロで掃除するのが、日課になる。 せっかく胸まで伸ばしていた髪が、抜けて無くなるなんて、、 自分が自分でなくなりそうに感じて恐怖だった。 柔らかくてストレートの髪質や、栗色の髪が好きだったのに、抜けてまた新しく生えてくると、髪質が変わる人もいると聞いて、ものすごく落ち込んだ。 人によって違うと思うけれど、女性の私にとっては、抗がん剤の副作用の脱毛で、体毛、特に髪の毛が全て抜けてしまうことは、すごく重要な問題だった。 看護師さんと相談して、バンダナ、帽子、かつら、ウィッグなどしている患者さんのことを教えてもらった。 より自然に見えるようにという希望で、ウィッグに帽子を被ったらいいかもと提案してもらい、早速、母親にウィッグと帽子を買ってきてもらった。 毛先がカールした、可愛いハーフウィッグに、ニット帽を被って、二つに結んだり、三つ編みにしてみると、すごく自然でいい感じになった。 自分の髪の毛が無くなっても、このウィッグで、長い髪の毛のある気持ちを保てて、オシャレも楽しめる。 ウィッグと帽子のおかげで、脱毛のショックが、少し和らいだ。 ただ、ごそっと大量に抜けてしまうのが怖くて、その時自分がどうなってしまうのかと心配で、ブラシでといたりシャンプーは我慢して、外泊の時に家で処理したいと思った。 抜けた髪の掃除が大変だから、みんな短くカットすると聞いて、妹に頼んで、長い髪をセミロングくらいに、クリーンのベッドでカットしてもらった。 みんなもっと短くするみたいだけど、髪を短くするのに抵抗があって、できなかった。 抜けにくいように、ゴムで結んでいた。 抗がん剤治療の点滴が終わると、副作用の

寛解導入療法~JALSG APL97~

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怖い夢を見た。 白血病の告知を受けた翌朝、夢の中で自分が棺桶に入って死んでいた。 周りをお化けに囲まれて、クスクス笑ってこっちを見ている。 その笑い声が耳元で大きくなっていき、枕元に誰かがいて金縛りになった。 なんとか解いてナースコールを押した。 看護師さんが来てくれて、安心して、ボロボロ泣いた。 昨日の骨髄穿刺(マルク)の胸の痛みが残っているのも訴えた。 自分が思ってる以上に、告知のショック、治療や死の恐怖があるのだと思った。 WBC   12900 Hb          7.2 PLT         6.9 GOT        88 GPT        64 LDH     1173 PT         59% APTT     37.5 Fib        129 Blast     10.0 ProMy    45.0 (寛解導入療法 Day1) 告知の翌日から、寛解導入(JALSG APL97)の治療が始まった。 M3の特効薬、ベサノイド(ATRA) キロサイド 7日間 イダマイシン 3日間 抗真菌剤、抗菌剤などの飲み薬 化学療法(抗がん剤)の副作用の説明を聞いて、とても怖くなった。 吐き気、嘔吐、脱毛、骨髄抑制、倦怠感。 寛解(白血病細胞が全体の5%以下)を目指すため、強めの治療をすると言われた。 吐き気止めの薬を入れてもらっていたけど、夕方から吐き気がきた。 病院の食事は食べられず、アイスを食べた。 抗がん剤治療、2日目以降は、ずっと船酔いのような感じで、吐き気が続いた。   飲めず、食べられず、何度も嘔吐して苦しかった。 加熱食の臭いがダメで、食事もほとんど食べられず、ゼリー、みかん、アイスなどを恐る恐る食べるも吐いた。 輸血しながらの抗がん剤治療。 体が本当にしんどくて、気持ち悪くて何もできない。 嘔吐、下痢、微熱が続いた。 本当に辛いよ… 覚悟はしていたけど、想像より何倍もきつい。 こんなのが続いて、乗り越えられるのかな。 輸血も毎日のようにしている。 今の私は、献血してくれた見知らぬ人たちの善意で、助けられているんだと感謝した。 会社に連絡して、病名と

骨髄穿刺・告知~急性前骨髄球性白血病~

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目まぐるしく変わっていく、体、心、環境。 つい1週間前には資格試験を受けていたのに、緊急入院から3日目、救急車で転院となり、何が何だかわからぬまま、クリーンルーム(無菌室)に入室していた。 気が付くともう夕方。 前の病院では絶食だったけど、新しい病院では食事OKだと聞いて、すごく嬉しかった。 口からご飯を食べられることが、すごく美味しくて幸せだと感じた。 クリーンルームは綺麗で、滅菌水が流れる洗面台、トイレもあって安心した。 看護師さんからクリーンルームでの、注意事項を受けた。 血小板の輸血を入れ終えて、点滴や輸血を入れるための、中心静脈カテーテル IVHの処置をした。 右の鎖骨から縫われてすごく痛かった。 終わったら看護師さんが、「何か買ってきてあげるよ」と言ってくれて、院内のコンビニでゼリーとお菓子を買ってきてもらった。 クリーンから一歩も出られないので、家族や看護師さんに頼らないといけない。 初めてのクリーンルーム、閉鎖された空間、ビニールカーテンで囲まれている環境に慣れなくて、睡眠薬を処方してもらったけれど、なかなか眠れずにいた。 翌朝、救急車のサイレンの音で目が覚めた。 ずっと耳で鳴っていて、朝の採血に来た看護師さんに言ってみた。 看護師さんは、救急車は来てないし、聞こえないと。 昨日救急車で搬送されてきたから、幻聴なのかな……。 WBC   19100 Hb          7.3 PLT        4.0 CRP    0.7 GOT        68 GPT        16 LDH     2619 PT         39% APTT     41.3 Fib        129 D-D   >20 FDP      76 TAT      27 Blast     6 ProMy    55 お昼から心電図の検査をし、そのあと骨髄穿刺(マルク)の検査をした。 局所麻酔をして、胸骨の骨髄にグリグリと太い針を刺し、骨髄液を採取する。 一瞬、息が止まるような強い衝撃が走った。 体感したことのない、胸を刺される拷問のような体験。 すごく怖くて痛くて涙目になった。 その日の夕方、Dr.が病室に

転院~容態悪化 DIC~

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歯茎から出血が止まらない―― 入院2日目の夜、歯磨きをしていたら、どろっとした血の塊が、口から流れ出てきた。 ティッシュで押さえても止まらず、すぐに真っ赤に染まり、服の袖口に鮮血がついた。 体温 38.5 歯肉出血 悪寒 寒気がして暖房の温度を上げ、マフラーと上着を着た。 部屋内の移動も辛くなり、入院した時より明らかに悪化している。 看護師さんに座薬を入れられて、歯磨きはせず、うがいだけにするように言われた。 どうしてこんなにしんどいのだろう? 熱も出て明らかにおかしい。 不安と高熱で眠れず、しんどさと闘っていた。 入院から3日目の朝。 朝食を摂ろうとしたら看護師さんが来て、「絶食になったから引き下げるね」と、飲み物も禁止になりジュースも下げられてしまった。 食欲は無いけれど、ジュースは飲めると思ったのに…。 絶食になってしまい、栄養は全て点滴になった。 WBC   16500 Hb          8.3 PLT        1.6 CRP        2.0 LDH     6073 PT        27.8% APTT    25.2 Fib         91 D-D      60.10 FDP      33.1 TAT      16.3 PIC      10.2 前骨髄球 1% 不明細胞 70% 先生が病室に来た。 入院当初は資格試験の話や、世間話などしていたけど、どんどん深刻な表情になっていた。 「なかなか転院先が見つからないから、もう他府県の遠くの病院に当たってもいいかな」 「できれば近くの病院がいいです」 そう私が答えると 「今はそんなこと言ってるけど、あなたの今の状態は、あと3日、もつかどうかの状態なんだよ」 と先生が深刻な表情で言った。 突然余命宣告をされて、自分の状態がそんなに深刻だったんだと知り、急に死が身近に感じて、怖くなった。 「もう遠くの病院でもいいからお願いします」 そう先生に言った。 「じゃあ もう片っ端から当たってみるから」 「今日は祝日でどこも病院が休みだから、明日の朝一番に受け入れてくれる病院が見つかったら、そこに転院になることでいいね」

対症療法~専門医のいない病院~

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窓から見える景色を眺めていた。 道行く人たち、自由で幸せな世界。 ついさっきまで、自分もあちら側にいたのに、今は白血病の疑いがある、隔離されている病人。 外来受診からそのまま緊急入院となり、予期せぬ事態に、どこか夢の中にいるような気持ちでいた。 「白血病」と、はっきりとは言われず、悪ければ白血病の可能性もあると言われていた。 だからきっと自分はそこまで悪くないはず。 そう思っていた。 先生は専門医のいる転院先を探していた。 「ヘモグロビンや血小板は輸血で上げられるけど、白血球は上げられないから」 「一刻も早く専門病院で治療をしないといけない」 母親は先生たちに問い詰めていた。 「どうしてここで治療してもらえないんですか?」 「ここで治療をしてください」 「あと何日仕事を休ませないといけないのですか?」 「この不景気の時に仕事がなくなったら困ります」 先生は 「今は仕事より娘さんの命の方が大事です」と。 母親は金銭に対する執着が強くて、いつもお金の心配ばかりしていたから、そんな不安を感じたのだろう。 「お母さんは仕事の心配されていたけど、今は体のこと、命が一番大事だからね」 「昨日入院した人は、すぐに転院先が見つかったんだけど、早く転院先が見つかるといいね」 看護師さんが優しく気遣ってくれた。 赤血球や血小板の輸血をしたり 「注射しますね」 と何の注射かもわからず、処置されるがまま腕に打たれる。 トイレ以外は、できるだけベッドの上で過ごすように言われた。 入院初日の夜、MAP(赤血球)輸血をしていると、体が熱くて、気分が悪く、しんどくなってきた。 「ちょっと熱っぽいんですけど……」 看護師さんに伝えた。 体温 38.0 薬 氷枕  輸血が合っていないのかな…… 突然気分が悪くなってきた。 赤い輸血を見てるだけで気持ち悪くなる。 看護師さんが次々と注射や輸血をしにくる度に、どんどん容態が悪くなり、病院の処置に対して不安と恐怖に襲われた。 「もう止めてくださいよ!」 看護師さんに反射的に声が出た。 入院して症状が良くなるどころか、逆に入院前より急速に悪化している。 輸血すると気分が悪く、しんどくなるから嫌

緊急入院~白血病の疑い~

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「待合室は人が多くて、風邪とか移ると大変だから、ここで休んでいて。順番が来たら呼びに来るから」 総合病院の受付と採血を済まし、土曜日の混んでいる、内科外来の待合で座っていると、看護師さんが優しくそう言って、人が少ない休憩所に連れていってくれた。 一体何の病気なんだろう? わざわざ待合室から離れた場所に連れて来られて…… 不安に思いながら待っていた。 看護師さんが呼びに来て診察室に入ると 先生が 「一人で来たの?」 優しく言った。 「数値がかなり低くて、しばらく入院してもらわないといけない」 「白血病の可能性もある」 WBC   900 Hb       5.8 PLT      2.0 CRP     0.4 LDH    385 PT      48.8% APTT  24.7 Fib     177 D-D    22.25 FDP    22.0 TAT    9.9 PIC     15.5 前骨髄球 3% 不明細胞 9% 先生は優しく静かに、ゆっくり説明してくれた。 今までの病院の先生の対応とは、全く違う雰囲気だった。 先生から説明を受けても、自分が白血病になるなんて全く信じられず、貧血じゃないかなと、どこか夢でも見てるような気持ちだった。 一度帰宅して入院のための準備をしたいと、先生に言ったけれど、 「外に出るのは危ないから家族に頼むように」 「そのまま病室に入ってもらう」 と、即入院となった。 家族に連絡し着替えを頼んで、友人には結婚パーティ欠席の連絡をした。 看護師さんに連れられて、入院病棟の広い個室に入り、体重や体調をチェックした。 トイレは部屋の簡易トイレを使用して、部屋から出ないように言われた。 「本当に白血病とかなんですか?」 「昨日まで仕事にも行ってたし、今日も自転車で来たのに」 「トイレまでなら行けるんですけど」 トイレも部屋でなんて嫌だと思った。 看護師さんは 「顔色も悪いし、下まぶたの裏、すごく白いでしょ」 「さっき壁づたいに歩いてたよ」 「それに部屋の外 特にトイレは 菌とか感染が危ないから」 「転院して専門の設備がある病院に移ったら、ちゃんとトイレも完備されている部屋

白血病予兆~不安な日々~

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口内炎が治らない…… 2003年10月、資格取得のために、仕事の休みの日にはスクールに通う日々。 疲れを感じるようになり、口内炎が複数でき拡大していた。 いつもなら自然と治るのに、全く治らず痛くて食事がとれない。 ドラッグストアで、塗り薬、貼り薬、ビタミン剤を購入した。 何か、いつもと違うと感じていた。 2003年11月、資格試験の日がせまり、模試や直前ゼミで忙しくなっていた。 疲労感、緊張感、胸がドキドキする、眠れない。 試験前のプレッシャーや忙しさで、疲れが溜まっているのかなと思っていた。 そんなある日の朝、起床すると、生理の出血が多量になって、シーツが血の海になっていた。 今まで経験したことのない多さに驚いた。 一時間ごとに、トイレに行かないといけない位だった。 毎日しんどくて、職場に着くと息切れがした。 「顔色悪いよ」 同僚から言われた。 試験勉強の疲れから、風邪か貧血だろうと思った。 仕事関係の苦手な分野の資格。 とにかく試験が終わるまではなんとか頑張って、終わってから病院に行こう。 試験当日、フラフラになりながらもなんとか受験できた。 ようやく解放される。 終わってホッとした。 鏡に映った自分の顔色は、真っ青になっていた。 頭痛、微熱、動悸、息切れ、吐き気、全身倦怠感。 心臓の鼓動が聞こえてくる。 帰宅するとそのまま座り込んで立てない。 頭痛薬を飲んだり、仕事を休んで休養を摂っても、全く良くならず、日増しにひどくなっていった。 近くのクリニックを受診し、血液検査をした。 「結果は来週に出るので、また来週に来てください」 そう言われ帰宅した。 次の日仕事に行くも、体調が悪く早退した。 家で寝ていると、昨日受診したクリニックから、電話がかかってきた。 「先生からお話があるので、今日中に来てください」 一体何の話だろうとクリニックに行き、診察室に呼ばれると、先生が神妙な顔をしていた。 「重度の貧血の数値」 「白血球、ヘモグロビン、その他の数値も、正常値よりかなり低くてびっくりした」 「総合病院に紹介状を書くので明日必ず行くように」 「検査入院になると思う」 そう言われて、明日の土曜日は

プロローグ~白血病闘病記~

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2003年の冬、突然訪れた試練。 病名「急性前骨髄球性白血病(APL・M3)」 TVドラマや映画の世界のお話と思っていた大病が、青天の霹靂のように、自分の人生に降りかかってきた。 私が白血病なの? 何かの間違いなのでは? 悪い夢なら醒めてほしい あまりに大きな試練に、現実を受け入れられなくて、悪夢を見ているかのように感じていた。 それまで経験したことのない過酷な闘病生活。 次々と襲ってくる辛い治療に、心身が耐えきれなくなって、逃げ出したいと思った。 人生には、思いもかけない、大きな試練が時折訪れる。 「神様は乗り越えられない試練は与えない」 そんな言葉が無情に感じることもある。 それまでの人生にも色々な事があった。 父親の不倫 10年を超える別居生活 相手の女性、連れ子の存在 経営会社の倒産、破産 母親のヒステリー。 精神的虐待(モラルハラスメント) 妹の不登校 思春期からの家庭は、機能不全家族に陥っていた。 そんな家庭内のことは誰にも話せず、普通に学校生活や社会生活を送っていた。 人間関係が苦手で、本当の気持ちを出すことが、怖くてできなかった。 ストレスやハードな社会環境に弱く、体を壊すことが多かった。 心を癒してくれるのは、一人でのんびり過ごしたり、動物や植物に触れている時間。 音楽、映画、本の世界。 父親の会社の倒産が、それまでの生活をリセットし、夜逃げ同然で、家も財産も全て失い、ゼロからリスタートすることになった。 そんな大きなショックから、家族みんなで必死に頑張って、心も生活も立ち直りかけた頃、仕事と家庭内の問題で、ストレスフルな毎日。 そんな私には、白血病という病が忍び寄っていた。

白血病のこと~心の葛藤~

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見えない世界の導きから、何気なく始めたこのblog。 気が付くと、心を軽くしてくれる、書くヒーリングのようになっていました。 不思議とここに書くことで、自分を見つめ、癒されていくことがわかり、感情の癒しの皮むきをしていく、フラワーエッセンスヒーリングのようだと。 今までは、どちらかというと、スピリチュアルやヒーリングなど、私にとっての光の面を綴ってきましたが、書いていくうちに、浮き上がってくるのは、心の奥深くに封印していたダークな感情でした。 白血病闘病時のことや親との問題など、ずっと吐き出せずに残っている、重い感情があるのがわかりました。 この重いものが、自分の中にずっしりとあって、動けなくなってしまったんだと。 白血病を患ったことで入院・闘病生活では、自分自身や家族と、嫌でも向き合うことになりました。 先生、看護師さん、他の患者さんとの関わりの中で気づいたこと。 ずっと見て見ぬふりをしていた問題が浮き彫りになり、家族、人間関係、死生観、人生観を考えるきっかけになりました。 当時は病気を治すこと、生き抜くことに精一杯で、心のケアまでできずにいました。 置き去りにしてしまった沢山の感情を、天使たちに導いてもらったこの場所に手放し、昇華して光に変えていけたらと。 いつも自分を苦しめているのは、世間の常識や世間体という見えない魔物。 規則、ルール、タブー、見えない縛り。 喜怒哀楽、どの感情も良い悪いもなくて、感情は自然に湧き上がってくる、魂からのメッセージなのに、大人になると、それをジャッジし善悪のラベルを貼って、ダークな感情を出すことを禁止してしまう。 今の自分に必要なことは、他人からどう思われるかよりも、自分の気持ちを優先して守ってあげること。 いい人であることよりも、自分らしく生きることが大事なんだと。 なので、今まで書いてきた、スピリチュアルやヒーリングのこととは、また別の面の、11年前に患った、白血病闘病記を、自分の心の整理のために、書いていきたいと思います。 押し込めてしまった、当時の感情がそのまま残っているので、今までとは違ったheavyな内容になってしまうかもしれないですが、どちらも本当の私です。 過去の感情とゆっくり向き合い、エッセンスたちにもサポ